映画に関する断片的なメモ

 私が通った大学は外国語大学で、途中で総合大学と統合はしたがキャンパスには外国語学部しかなかった。専攻としての言語は25、授業があるということでいえば100を超える言語が学べた。だから図書館には色んな言語の書籍や資料があって、それは音声・映像資料も同じだった。そういった資料は図書館とは別の建物の視聴覚室のような場所にあって、好きな時にそこで聴いたり観たりすることができた。極端に言えばツタヤでお金を払って借りるようなDVDから、数十年前に僻地で放映された映画のVHSまであった。院生時代は資料室に通い、フランス映画やイラン映画をよく観ていた。半分以上は娯楽のためだったと思う。いつ行ってもほとんど学生はおらず多くても五人くらいだった。もったいない話だと思うが、映画を観たり音楽を聴いたりするよりも楽しめることがある人たちが羨ましくもあった。

 

 サーデグ・ヘダーヤトの小品「ダーシュ・アーコル」が映像化された作品を観たことがある。四十歳の屈強な男が十四歳の少女に一目惚れする。心の内は飼っていた鸚鵡にしか打ち明けられない。恋慕を募らせたままやくざとの抗争の末にその人生を終える。少女は鸚鵡が繰り返すダーシュ・アーコルの言葉を聞き彼の愛を知って涙する・・・。という話だ。エンドロールでイラン人男性の上半身が映し出される。王書をモチーフにした刺青が入っている。それに見入ってしまった。いや、もしかしたら別の作品だったかもしれない。とにかくモノクロ映画であった。

 

 他国の人間が思うフランス人のイメージというものがある。アメリカで作られたラブコメみたいな映画を見ていると特に感じる。"A French friend recently reminded me that "the French are also eroticized in various ways." But I believe there is a difference between being eroticized for crème brûlée and being eroticized through the Chador. The former is not a manifestation of the master-slave mentality; the French are eroticized for their superiority, while the Orientals are desirable for their inferior delights."

 

 スラヴォイ・ジジェクアッバースキアロスタミ作品を好む理由として、作品を通してイランにおける日常生活のイメージのようなものが得られるわけではなく世界共通の葛藤を描いていること、と答えたらしい。(何のインタビューかは分からない。)

 

 ある講演会での話。研究者某氏がキアロスタミのある作品の中の一場面について、あれはイラン革命を暗示しているのではないかと指摘した。キアロスタミ映画の関係者の女性がそれは違うと思うと答えたが、研究者は「監督も無意識なだけできっとそうだ」と後に引かなかった。関係者の女性はそれでも「監督はそうとはおっしゃっていなかったですよ」と答えていた。その時監督はすでにこの世を去っていた。あの時の場の雰囲気。

 

 上京してすぐの頃、渋谷のユーロスペースソ連映画祭があった。大学時代の友人が付いてきた。確かグルジア映画だったと思う。映画の趣味が合わない人というのがいる。静かな場面で一人笑ってしまうような人だ。その当時は連れがそういったタイプで恥ずかしく感じた。だけど、予定調和や紋切り型のやりとりが好きじゃないと自覚する自分が、誤解や誤読や曲解の権利について考えることを疎かにしたことを今なら恥ずかしく思う。あそこで笑える感性の君が今なら羨ましい。

 別の日にはパラジャーノフ作品を一人で観た。観終わった後にセンター街を歩いていると後ろから名前を呼ばれた。アルメニアの安宿で知り合った旅仲間だった。彼の書く旅ブログが本当に好きだった。効率よく国を回る方法とかアフィリエイトとかそういった類のものからはかけ離れた、純粋な旅行記だった。同じ記事を何度読み返しただろう。今はもう削除されてしまい読めなくなってしまった。

 

 パラジャーノフの『アシク・ケリブ』という作品がある。ミハイル・レールモントフの同名の小説を下地にしている。舞台はティフリス。パラジャーノフのアシク・ケリブには歌を歌う少女が出てくる。どうやらペルシア語の詩のように聴こえるが、「別離の夜」「涙に濡れた瞳」という部分しか聴き取れない。長い間その詩の出どころを探しているが今だに見つからない。

 

 留学中、ホストマザーと一緒に観た映画。民放で放映されたのをテレビで観た。妻に先立たれた高齢の男性が、昔恋仲にあった女性に会いに行き求婚する。その女性の名前がホストマザーと一緒だった。二人で目を見合わせて大笑いした。年寄りの愛が実るのか笑いながらも二人で見守った。そのホストマザーも、彼女を生涯愛し続けたホストファザーも今はもうこの世にいない。二人のことを私はおじいちゃん、おばあちゃんと呼んでいた。空の向こうでもおじいちゃんはおばあちゃんに求婚しているのだろうか。おばあちゃんを子猫と呼びキスをしようとしてまた嫌がられているのだろうか。二人の姿は今も目の前に浮かぶようなのに会えないのが寂しい。二人が恋しい。