意見を表明することについて

これから書くのは何のまとまりもない文章であり、読んでいる人にとって何かの役に立つことはほとんどないでしょう。結論みたいなものもありません。一人の女が悩んで、考えている、今この時点の断片的な思いを綴っただけのものです。

 

 

体は書斎の中に、心は手のひらの上のインターネットの中に閉じこもっている感覚がある。自分で好き好んでそうやっているはずなのに、心も体も今すぐに開放されたいような気持ちになる。これが続くとしばらくSNSから離れることが多い。なるべく外へ出かけるようにもする。実際には暑くて家にいる日も多いし、投稿しないだけでSNSは見ている。

 

あるトピックについて自分の意見を述べることが苦手だ。発言するためには、適切な情報源にあたって情報を集め、分析して、意見を出したい。いい加減ことは言いたくない。興味をもった対象すべてに自分のリソースを割くことは現実的ではない。調べて考えて何か言わなければと、気持ちばかりが焦って消耗してしまう。あれこれと手を広げる前に、一つのことに関して考えてみればいいのに。タイムリーかどうかとかも気にしなくていい。分かってはいても、あっという間に色んな問題がタイムライン上に現れては流れていく。そんな日々だ。

 

Twitterは以前よりはずっと意見を表明する場になっているように思う。短文で表明するためには過激で扇動的な表現が多くなる。そうして発信した意見には、思ってもみないところから矢が飛んでくる。止まないツイートの応酬。議論というよりも喧嘩に見える応酬。ここでしか気づけなかった知見や情報もあるだろう。ただ、たどり着くまでに雑音が多い。それ以前に、基礎となる正しい知識を持ち合わせているのかと自問する。そもそも、誰かの確立された意見を読みたくてフォローをしているのだろうか。もっと手前の率直な考えを知りたいと思っていたのではないか。あるいはただの呟きを。それと同時に、他人の素朴に見える暮らしの上澄みを消費していないかと、自分は消費される側になっていないかと考える。見えているのはたった一面にしか過ぎないのに。

 

可能ならば自分の生活に政治的なものを持ち込みたくない。だが実際は、そんなのは理想ばかりで政治に無関心でいることは不可能だということも分かっている。何も言わないからといって何も考えていないわけではない。意見を表明しなくても、行動はできるかもしれない。自分が正しいと信じる行動を。